10年前の記憶 2021.3.11

東日本大震災から10年が経過した。当時の行動、出来事を記録しておく。
その時、5階の事務所で仕事をしていた。その瞬間は恐ろしいほど揺れた。火災が発生したのか、台場方面の高層ビルから煙が、もうもうと上がっているのが見えた。
これは只事ではないと感じた。社員は全員、別棟の食堂に集まるよう連絡があったが、自分は事務所で連絡係りとして待機を命ぜられた。誰もいないフロアで30分ほど、どこからも連絡が無い状態で一人時間を持て余していた。
やっと連絡があり、業務を切り上げ帰宅することになった。また公共交通機関は麻痺状態なので、帰る方角が同じ社員が車に分乗し、帰宅することになった。
自分は自転車で通勤していたので、何ら問題なく自宅にたどり着いたが、家には妻も娘も不在だった。
しばらくすると妻からメールが届いた。「今、川崎にいる」、「タクシーを待つ列に並んでいるが、全く進まない」、「交通機関が完全にストップしている」、「雪がパラついてきて寒い」、「娘を連れて地下街に移動した」、「タクシーで迎えに来てほしい」、「もしくはホテルを予約してほしい」とのことだった。
ダメ元でタクシー会社、ホテルに何件か電話したが予想通り断られた。
幼い娘を連れて立ち往生している妻は妊娠中だったので、自分はじっとしていられなかった。交通機関が今日中に復旧する見込みは無いし、歩いて帰るのも無理、ホテルも予約できないとすれば、屋外で過ごすしか無い。
そこで自分は自転車の荷台に毛布、キャンプ用マット、寝袋をくくりつけ、妻と娘が待つ川崎に向かった。途中たくさんの人が歩道を歩いて帰宅していた。
その流れに逆らうように自転車で川崎に向かった。50分ほどで川崎駅に到着した。妻から「駅前の美容院(ヘアサロン)に娘と待機している」とメールが届いた。自転車を停め、毛布を抱えながら地下街を通って美容院に向かった。地下街に降りる階段には、帰宅を諦めた多くの人々が無言で座っていた。
美容院で妻と娘に再会できた。その美容院の1階と2階のスペースには、子連れの家族が20人ほど床に座り込んでいた。
後から聞いたのだが、その美容院は子供連れで困っていそうな人に声をかけ、職場を避難所として開放したそうだ。たまたま妻は声をかけられたのだ。
ここは雨風が凌げるだけで有り難いのに、暖房も有り、夜中には隣の居酒屋さんから、おむすびの差し入れまであった。
一晩美容院で過ごした後、早朝、美容院のオーナー、従業員の方々にお礼を言って店を出た。そして、やっと動き始めた電車に乗って、妻と娘は帰宅できた。
今回の地震で被災や被害に遭われた方々のことを思えば、私達家族は苦労したうちに入らないのだが、当時の出来事を忘れないよう何かしら記録しておこうと思った。
当時妻のお腹にいた次女は、この年無事生まれた。
今日、長女に当時の記憶があるか尋ねたが、「地震があった時、ちょうどアイスを食べていた事は覚えているが、それ以外ほとんど印象に残っていない」との事だった。仕方ない。
以上