俺の作品とイワン・デニーソヴィチ 2005.5.30

 早いもので5月も、明日で終わりです。心地よい季節は過ぎ去るのが、特に早いような気がします。

さて、今日は「俺の作品とイワン・デニーソヴィチ」という題でお話します。

最近、自分で自分の書いた図面を見て思うのですが、以前に比べて愛着が出てきたと言いますか、「これは俺の図面だ」という気持ちが強くなったような気がします。

私が担当する物件の図面のほとんどは、過去に作成された図面を基に、客先の仕様に合うように修正して仕上げる場合がほとんどです。

以前は「図面は、あくまでも図面」という感覚でしたが、最近は「俺の作品だ」という気持ちが強くなってきました。

これは図面だけではなく、出来上がってくる装置についても言えます。設計図である図面を基に部品が、多くの人の手によって、削られ、曲げられ、溶接され、磨かれ、最終段階で組み立てられていきます。

図面にサインを入れるように、この出来上がった装置・機械にも自分の刻印を入れたくなる、そんな気持ちです。

このような気持ってありませんか。現場で実際に手を使って物を作っている方は、もっとその気持ちが強くないですか。

もちろん出来上がった装置を見て「ここはもう少しこうすれば良かった」とか、「こっちにすれば良かった」とか「この部分はダサかったな」と反省することもたびたびあります。それはそれで、次に活かそうと思うわけです。

ここで思い出したのが、「イワン・デニーソヴィチの一日」という小説です。この話は私が入社した頃、上司のY原部長が話されていたので、ご存知の方もいらっしゃるかもしれません。

主人公であるイワン・デニーソヴィチ・シューホフの強制収容所における一日を克明に淡々と描いた作品です。

小説といっても、作者自身、思想的理由で逮捕され、強制収容所で生活を送っており、その経験をもとに書かれているので表現が非常にリアルです。

内容はスターリン時代の強制収容所で働かされている男の物語で、零下27℃の極寒のなか工場建設現場に駆り出され、主人公が工場のブロックを積む作業などが書かれています。

私はこの話の中の主人公、イワン・デニーソヴィチが、レンガを積んでいる場面が特に印象に残っています。

本文を少し紹介します。

作業の配分を考え、手の遅い仲間をかばいながらブロックと会話を交わすように仕事に没入していく。

ブロックはどれひとつをとってもみんな形が違っている。縁の欠けたもの、ゆがんだもの、いや飛び出したものもある。

だが、シューホフ(主人公のイワン・デニーソヴィチのことですが)は、一目でその特徴をのみ込んで、そのブロックがどんな具合に出たがっているかを見抜いてしまう。いや、壁のどの部分がそのブロックを待ちこがれているかまで、見破ってしまう。

しかも、彼の作業班は1日働いた後、5段目のブロックを積み上げる仕事がもう少しで片付くことを知ると、他の班は作業を終えて工具を返しに行っているのにもかかわらず、その完成に向けて猛然と突進する。

集合に遅れれば、遅刻した者は独房に叩き込まれる決まりになっているのにもかかわらず、点呼が始まってもまだ彼らは働き続ける。ようやく5段目が積み上がって仕事の終わりがくる。

「畜生、やっと終わったか」「さあ行こう!」と道具を担いでタラップを降りていく。

しかし、シューホフはたとえ護送兵に犬をけしかけられたとしても、ちょっと後ろへ下がって仕事の出来栄えを一目眺めずにはいられない。

左右から壁の線を、片目をつぶって確かめ、水平が出ているのを確認して、

「ぴったりだな。まだまだ、この腕も老いぼれちゃいないな」と独り言をいう。

まあ、こんなところですが、強制収容所の話と、私達がやっている仕事を比較するのは無理があるかもしれませんが、良いものを作りたいという気持ちや、自分が納得のいく仕事をしたいという気持ちをよく表していると思います。

ここで勘違いしないように付け加えますが、「俺の作品」という例で図面の話をしましたが、図面に個性があるという意味ではありません。

同じルールに基づいて図面を作成すれば、誰が作成しても同じ図面になるのが理想です。つまり図面に個性は不要なのです。

図面を描く際に心がけるのは、できるだけ図面から設計者である自分の個性を消すことです。つまり“モノをつくる”ための「図面」には、設計者の“表現上の個性”は不要なのです。

自分が見やすい図面を描くことではなく、作る人誰が見ても見やすく、わかりやすく、間違いのない図面を描くことが重要なのです。

最後に一つ。

仕事をしていると先輩の方々の仕事を目にする機会があります。修理で装置が工場に送り返されてきたり、お客さんの所で動いている装置を見たり、また昔の図面や資料、計算書を確認することがあると思います。

それぞれ当時の苦労の跡が見て取れ、感心することがあると思います。言い換えれば私たちの仕事も将来、次の時代の後輩たちに見られるということです。

先ほど紹介した小説の中で、主人公シューホフが昔に作られて、古くなった壁を見て「投げやりな仕事ぶりだな」と言いながら黙々と直していたという部分があります。

私たちの仕事も将来、後輩たちが私たちの残した仕事を見て、「投げやりな仕事ぶりだな」と言われないようにするのはもちろんですが、逆に後輩たちの背筋がピンと立つような仕事を残していきたいと思います。

以上です。ご清聴ありがとうございました。